海人伝説 「レジェンド」 たちの軌跡 <2>
第二回
小松一憲さん
早稲田大学ヨット部コーチ
東京大学ヨット部コーチ
1970年代から80年代にかけて“小松一憲”の名は日本のヨット界を席巻した。
日本のヨットレーシング史に一時代を築き、1976年のモントリオールを皮切りに、1996年のアトランタまで4回のオリンピックに出場した小松一憲さんは名選手と呼ぶに相応しい戦歴の持ち主。現役引退後は後進の指導にあたり、監督、コーチとしてさらに3回のオリンピックを経験し、2004年のアテネでは日本代表チームの監督として、470級男子の関・轟組の銅メダル獲得に貢献している。 他方、外洋ヨットの世界でも国内外の名だたるレースで優れた成績を収め、世界一過酷なレース、1993年のホイットブレッド世界一周レースでは見事に優勝を果たしている。
ディンギーから外洋レーサーまで、あらゆるヨットを乗りこなし多くのヨットマンから熱い支持を受け続けながら、いまなお、日本ヨット界発展のために情熱を注ぎ込むレジェンド、小松一憲さん…そのヨットに対する熱い思いのすべてを語る。
少年時代、夢は“船乗りになる!”ことだった
「家から自転車で10分も走ると横浜の大桟橋に着きました。小さい頃から、たくさんのフネが港を行き来する景色を見ながら遊んでいたので、自然とフネに興味を持つようになりました。
小学生の頃、よく釣りに出かけた場所が当時の横浜ヨットハーバー(いまの岡本造船)だったのです。そこは、関東周辺大学のヨット部艇庫があったので、釣り糸を垂れながら彼らの練習を眺めていたものです」
戦後の復興が進む昭和20~30年代の横浜港は活気に溢れていた。また、戦後、息を吹き返した大学ヨット部も横浜の海をベースに始動した。大小のフネやヨットを自然に目にする環境に育った小松さんや当時の遊び仲間にとって、プロ野球の選手や飛行機のパイロットに負けないくらい“船長”は憧れの職業だったようだ。そして、小松さんの場合、海やフネへの憧れに拍車をかけたのが叔父さんの存在だった。
「たまたま、叔父が船乗りだったんです。海運業が華やかな時代でしたから、子どもの目からも叔父がとても輝いて見えました。あの頃の船乗りは羽振りが良くて陸に上がると豪快にお金を使っていました。叔父もフネを降りるたびに繁華街に繰り出し、子どもの私には豪華な食事をご馳走してくれました。昔の映画に出てくるような粋なマドロスの雰囲気があったのです」
叔父さんのような、粋な船乗りになりたい…海やフネに憧れを抱いていた小松少年、そんな思いは、ある出来事をきっかけにヨットの世界へと向けられていくことになった。
横浜ヨットハーバー(1953年頃)
1950年頃の本牧沖ヨットレース風景
横浜港内防波堤(横浜開港150周年記念事業・みんなでつくる横濱写真アルバムより)
一回限りのレッスン、がむしゃらに掴んだ“夢の世界”
「誰でもいちどは経験することですが、私も中学生になる頃から反抗期を迎えていました。
叔父に憧れ、船乗りになる夢を漠然と抱きつつ、親に口ごたえしながらうつうつとした日々を過ごしていました。そんな生活を変えるきっかけとなったのが高校野球だったんですよ。高校1年生の夏にテレビで高校野球を観ていたとき、一生懸命プレーする高校球児たちがとても輝いて見えたのです。同じ高校生なのに、彼らはひとつの目標に向かってとても一途な生き方をしている。それに比べて、ふてくされて、ヤル気のない毎日を送っていた自分に嫌気がさしたのです」
自分も大きな目標を持って生きなければダメだ、と心に誓った小松さんの脳裏に真っ先に浮かんだのが大海原を走るフネの姿だった。たまたま、友人の兄が早稲田大学のヨット部にいることを知った小松さんは、「思わず、これだ」と思ったと云う。そして、ヨットを覚えれば高校生でも自分の力で海に出ることが出来る…と、とことんヨットに打ちこんでみる決意を固めた。
「それで、友人の兄貴にヨットに乗せてくれと頼んだんです。でも、大学の資材であるヨットを勝手に持ち出し、部員でもない他人を乗せて遊ぶことなど許されるわけがありません。だから、ヨット部の兄貴は“まずは自分でヨットを手に入れろ”とアドバイスしてくれました」
当時、大学卒の初任給が4万~5万円のとき、中古のヨット(ディンギー)とはいえ20万円という夢のような金額だったが、一念発起してヨットを始めると決めた小松さん、それからというもの、頭の中はヨット一色に染まった。夏休みになると、港で“沖仲士”という日雇労働で汗を流し、夢を掴もうと必死で貯めたお金で友人と共同購入。念願のディンギーを手に入れ、腰越漁港に置いたのは秋も深まる頃だった。
「やっと自分たちのヨットを持ったのですが、ヨットの知識が全然ないわけですから、なかなかひとりで海に出る機会もなかったのです。そんなとき、友人の兄貴が早稲田ヨット部の後輩を紹介してくれ、たった1日だけのレッスンが始まりました。海に出て、ひとからヨットを教わったのは、後にも先にも、このときの1回だけです」
風が強く、ハーバーを出てからたった15分ほどしか走ることが出来なかった小松さんは、出港から帰港まで一連の動作を必死になって頭に叩き込んだ。その後は、この1回だけの体験を頼りに、果敢にもひとりで海に出て行くようになった。じつは小松さん、ヨットを買うための貯金を始めるのと同時に、ヨット関係の参考書を読み始め、ヨットを手に入れたときにはすべてのページを暗記するほど徹底的に読破していた。たった15分ほどのレッスンを頼りに、友人とふたりで海に出て行くようになった蔭には、”なんとしてもヨットを覚えたい”という強い信念のもとに、こうした地道な努力もあったのである。
たった1回のレッスンから独学でヨットの楽しさを見つけていった小松さんは、高校3年生の夏頃には、当時、江の島ヨットハーバーで開催されていた幾つかのヨットレースに参加して優勝するまでに腕を上げていた。「ひょっとしたら、自分にはヨットのセンスがあるのかもしれない」と思った小松さんだが、高校卒業後の進学先に選んだのは、ヨット部のない日本体育大学だった。
夢から決意へ、小松一憲選手の誕生
「当時、ラグビー部を指導する熱血漢の体育教師と部員の生徒たちとの交流を描いた「これが青春だ!」というテレビ番組がとても人気を集めていて、私も夢中になって観ていました。ちょうど、高校卒業後の進路を決める時期だったのですが、“自分はヨットが好きだから、体育の教師になって『これが青春だ!』の海版をやってみたいと考えたのです」
体育教師になるために入学した日本体育大学には残念ながらヨット部がない。だから、ヨットは独学で頑張るしかない、とあらためて決意した小松さんが選んだ道は競技用ヨットの世界だった。
母校にヨット部がないため、インカレ(大学選手権)制覇の夢は抱けなかったが、国体、世界選手権、オリンピックという大きな目標は残されていた。
「そのために、最初に買った12フィートディンギーを手放し、当時、国体はもちろん、オリンピックなどの国際大会で採用されていたフィン級を購入しました。しかし、当時は、一介の大学生が、オリンピック艇種の競技用ヨットを手に入れるのはなかなか難しかったのですよ(笑)」
ヨット競技の経験もない大学生が、なぜ、国体やオリンピックで採用されていたレーシングヨットのフィン級を欲しがるのか、とヨットメーカーの担当者は不思議がり、レジャー向けのヨットを勧められたと云う。
「当時、日体大の、ラグビー部や陸上部など、さまざまな運動部で練習をしている大学の同級生たちは、血の滲むような努力を重ねて必死でレギュラーの座を目指していました。しかし、江の島ヨットハーバーで目にするヨットの選手たちは層の厚さが違うためか、私の同級生たちほど激しい競争をしているわけでもなく、練習量も少ないように思えたのです。だから、生意気なようですが、ラグビーや陸上で頑張っている同級生と同じように練習に励めば、江の島で活動しているほかの大学ヨット部の選手には負けない、全日本レベルの選手にぜったいになってみせる、と大見栄をきってメーカーの担当者を口説いたのですよ(笑)」
フィン級を手に入れたこのときのやり取りは、小松さんにとってヨット競技人生の原点ともいえる出来事だった。たった15分の個人レッスンでヨットを始めて1年余り。「体育の教師」になってヨットを生徒たちに教えたいというささやかな夢は、このときを境に大きな決意へと変わっていった。
大学4年のとき、アルバイトで出場した江の島のワン・オブ・ア・カインド・レガッタ(各種目の対抗レース)で優勝。ヤマハ発動機のスタッフと記念撮影。前列右から4人目が小松一憲さん
大学2年のとき、当時、国体やオリンピック艇種として採用されていたフィン級を“3年ローン”で手に入れた小松さん、たったひとりの孤独な練習が始まった。それも、誰もが思いつかないような練習方法で、ひたすらフィン級に乗り込み、走らせたそうだ。
「当時、朝の暗いうちにテントを積んで江の島ヨットハーバーを出て相模湾を渡り、夕方4時過ぎには館山に着きました。館山にはフィンを係留できる桟橋があって、そこにフネを係留して砂浜にテントを張って泊まり、数日後、日が昇る頃に館山を出て江の島に帰る、なんてことをしょっちゅうやっていました。とにかく、最初はフネを走らせることと、海の知識を覚えることに無我夢中でした」
フィンに乗り始めて3年目、大学3年生になると、それまで積み重ねてきた努力が一気に花を咲かせることになった。相模湾をフィン級で何度も往復した練習で、小松さんには、荒波、強風での対応力が養われ、強靭な身体能力が身についていたのである。
「江の島で、神奈川県の国体選手選考レースの告知をみて参加しました。選考は一次予選、二次予選とあって、一次予選は一般の人向き、二次予選は前年代表選手など経験豊富な選手の大会だったのですが、じつは、一次予選、二次予選ともにオールトップで優勝し、国体選手に選ばれてしまったのです。このとき、戦術なんてめちゃめちゃでしたが体力だけは自信があった。組織や団体に加盟していない無名の一選手がどんどん勝ち進み、とうとう優勝してしまったのですから、まわりは驚いたわけです(笑)」
自前で手に入れたフィン級で神奈川県国体代表選手の座を掴む
神奈川県国体代表小松一憲選手の誕生には、母校である日体大の教職員もあ然としたそうだ。高校時代の履歴をみてもヨットに関する成績の記載は皆無で、大学にもヨット部はない。そんな環境にある生徒が、ある日、「神奈川県の国体代表になりました」と申し出たのだから驚かないほうが不思議で、この日をさかいに、大学側もヨットという競技に理解を示すようになったという。
必死で手に入れたフィン級を乗りこなし、大学3年生で神奈川県の国体選手に選ばれたのを皮切りに、フィン級全日本選手権を制覇してプレオリンピック日本代表に選ばれるなど、その後、戦歴を積み重ね、活躍の場を広げて行った小松さん。独学でヨットを始め、独自の練習法で技を磨き、世界の檜舞台での活躍を誓う…トップセーラー「小松一憲」が誕生した瞬間である。
世界の檜舞台へ、究極の選択…
世界に飛翔した小松一憲選手の輝かしい戦歴をお伝えする前に、その後の人生を左右したもうひとつの“決断”について触れておこう。
学業も順調に推移し、無事に日本体育大学を卒業した小松さんは、地元神奈川県で念願だった体育教師になって、順調な社会人人生の第一歩を踏み出した。日々、子どもたちに体育を教え、放課後はクラブ活動の顧問として活動し、週末は江の島に行ってヨットの練習。そんな充実した生活を送っていた小松さんだが、その後の人生を左右する大きな転機が訪れた。
「全日本を制覇して、プレオリンピック日本代表として海外遠征に行って、ヨット先進国の選手たちと一緒に走ってみて、日本とのレベルの差を痛いほど味わったのです。まさに、井の中の蛙でした。日本代表選手のプライドなんていとも簡単に吹き飛んで、結果は75艇中71位という散々な成績に終わりました…」
世界の壁を痛感した小松さんが、どうしたら世界と戦えるか、と真剣に悩んだ末の結論は「ヨットの練習に集中出来る環境」をつくることだった。
「彼らと対等に戦うには絶対的な練習量が足りない。しかし、生徒との時間を大切にすればヨットの練習量が減ってしまうし、練習に集中すれば生徒との時間が疎遠になってしまう…大いに悩んだ末の結論は“オリンピックという檜舞台にたてる可能性に賭ける”ことだったのです」
じつは、この時期に、小松さんは、マリン業界のリーディングカンパニー、ヤマハ発動機から「ヨットの開発、普及の仕事に携わってみないか」という誘いを受けていた。そして、体育教師になって1年弱、究極の選択の末、下した決断は「世界一になる夢を貫くために先生を辞める」ことだった。世界の壁に挑戦するという強い情熱が、最後には小松さんの心を動かしたのである。
初めて海外遠征に参加して多くのことを学んだ
世界の頂点へ。4度のオリンピック挑戦
中学教師からの転職、悩んだ末の決断だったが、ヤマハに入社した後の小松さんは飛ぶ鳥を落とす勢いで国内大会を席巻していった。入社2年後の1974年には470級全日本選手権に優勝、1976年に1度だけその座を他に譲ったが、1979年まで日本一の座を守り続けることになった。
しかし、この1976年は小松さんにとって「初めてのオリンピックに出場した」特別な年になったのである。モントリオールオリンピックに470級日本代表として初めて出場した小松・黒田チームは総合10位という好成績を収めた。ちなみに、モントリオールオリンピックの日本代表チームは
・フィン級 | 広沢孝治(29)/21位 |
・470級 | 小松一憲(28)・黒田光茂(23)/10位 |
・FD級 | 花岡一夫(27)・堀内巧(27)/18位 |
という結果に終わった。
初めてのオリンピックに出場したことで小松さんの人生観も大きく変わっていった。
「いままで、ひとりで決断し、ひとりでヨットの腕を磨き、ひとりで苦労してきたと思っていたが、オリンピックに出たことで何もかもが変わった。じつは、それまでの人生も、いろいろな人に助けられ、励まされ、勇気をもらってきた。そんな人の輪の有難さをオリンピックの舞台に立つことで知ったのです。初めてのオリンピック挑戦での第6レースはいまでも忘れることが出来ません。
それは、微風のレースコンディションで、最終マークまで2位につけていたのが、急に風がシフトして一気に20位まで落ちてしまった。これがなければ総合成績で入賞していたはずで、これが悔しくて、悔しくて…それ以降、もう1回、もう1回とオリンピックに挑戦しているうちに、気がつけば4回も出場することになったというわけです(笑)」
「モントリオールオリンピックが終わって、日本に帰ってきてから、ヤマハ発動機㈱ボート事業部の仕事の一環として全国を講演して歩きました。そのとき、オリンピック効果の凄さに驚きました。全国津々浦々、どこに行っても大歓迎され、温かく迎えられ、励ましの言葉をもらった。この経験から、大勢の人びとにヨットの楽しさを伝え、大勢のヨットファンを育てようと決心しました」
小松さんをはじめ、日本選手のオリンピックでの活躍が火付け役となり、1970年代後半から80年代にかけて空前のマリンブームが到来した。さまざまなメーカーが数多くのディンギーやクルーザーを生産し、全国各地で賑やかにヨットレースやイベントが開催されるようになった。
モントリオールオリンピックの閉会式にて
海外遠征の仲間、モントリオール五輪FD級日本代表の花岡一夫氏と
職場の仲間とヨットに打ち込む日々を送る。左上から2人目が小松さん
荒ぶる海へ。勝利することの意義
小松一憲さんのヨット人生のなかで、最高の栄誉とは何だったのだろうか。
オリンピックでは、モントリオールの470級代表を皮切りに、ソウル、バルセロナ、アトランタではソリング級の日本代表として連続出場し優秀な成績を残す。他方、外洋ヨットの世界でも、国内外の名だたるレースで優勝を飾るなど、ディンギーから外洋レーサーまであらゆるヨットを乗りこなし、優れた戦績を誇る小松さんにとっての最高の栄誉とは――。
「ホイットブレッド世界一周レースで優勝し、その記念に、大勢のロンドン市民が見守るなかテムズ川のタワーブリッジをセーリングしたことは、私のヨット人生のなかでいちばんの宝です。これは、世界一過酷なレースに優勝したご褒美で、言ってみれば凱旋パレードのようなものですが、ヨット乗りとして最高の栄誉、一生の思い出として残っています」
「ホイットブレッド世界一周レース」は、1973年に第1回大会が開催されてから、90年代後半にかけて4年にいちど開催されてきた究極の外洋ヨットレースである。灼熱の赤道無風帯から氷山が漂う大荒れの南氷洋まで、総計3万2千マイル(約6万km)の世界一周コースを250余日掛けて走破する過酷な海の闘い。日本のリーディングカンパニー、ヤマハ発動機が最新技術の粋を結集して建造した<YAMAHA>で初挑戦したのは1993年の第6回大会。そして、120日4時間55分00秒という驚異的な記録で、見事に初挑戦、初優勝の快挙を成し遂げた。
当初、<YAMAHA>のクルーメンバーのなかに小松一憲の名前はなかったという。
艇長のロス・フィールドはこの過酷な闘いを3度も経験し、前回の第5回大会では優勝した実績を誇るベテランセーラーで、優勝を目指す<YAMAHA>の乗員は、全員、自国の優秀なニュージーランド勢を揃えていた。9か月にも及ぶ長丁場のレースでは、セーリングのスキルはもとよりチームのコミュニケーションが最も重要な要素となる。しかし、世界一過酷なヨットレースに初名乗りを挙げたヤマハシンジケートを含め、日本のヨット界にとって、日本人クルーが参加していないということは“挑戦”の意義が半減してしまう。そんな状況のなかで「日本のヨットが参加するなら、日本人も乗るべきだ」と考えた小松さんは、自ら、ロス・フィールド艇長に手紙を書いて「クルーとして参加したい」旨を伝えたという。
そして、晴れてクルーの一員に迎えられた小松さんは、8か月にも及ぶ長いニュージーランドでの合宿生活のなかで、厳しいトレーニングで鍛えられ、ニュージーランド訛りの英語にも慣れて、次第に他のクルーとも溶け込んでいった。
「南氷洋では水温も気温も2、3度しかなく、飛沫をかぶらない日はなかった。おまけに、私たちの艇ではヒーターが壊れてしまったので暖をとることも濡れた衣服を乾かすことも出来なかった。寝るときも湿気がとれない寝袋のなか、このときの辛さは、とても言葉では表現できないほどでした」
「とても辛く厳しい航海のなかでも、真っ暗な夜にわずかな光を反射して輝く氷山の荘厳さ、地の果ての海を飛ぶ鳥たちの逞しさに感動しました。これらは、過酷な試練に打ち勝ったものでしか味わえないものです。航海中のクルーたちはどんどん精悍な顔つきになっていきます。レースを走り終えたフィニッシュの瞬間、周りのクルーたちをみると、まるで修行僧のように輝いていました」
もちろん、11人の仲間と一緒に長い過酷な闘いを走り終えた小松さん自身、精悍に輝き、オーラを放っていたに違いない。“ホイットブレッター”となった小松さんにとって、この貴重な経験は、その後、指導者の道を歩んでいくうえで、非常に大きな力になっていったそうだ。
ホイットブレッド世界一周レースに初挑戦、初優勝した<YAMAHA>
ニュージーランド勢で固めたクルーにただひとり小松一憲(右から2に目)が参加
過酷な闘いを走り切ったフィニッシュ直後の小松さん
テムズ川のタワーブリッジを走る。勝利者だけが味わえる最高の栄誉だ
50年先のヨット界を見据えて
2020年東京オリンピックまであと3年、日本のヨット界はこの東京オリンピックを機に、ふたたび飛躍の刻を歩めるのだろうか。
「1964年に東京オリンピックが開催されて、日本のヨット文化もようやく根付き始めました。
東京五輪が終わったとき、日本の指導者が痛切に感じたことはジュニア世代を育てることです。そのために、デンマークから寄贈された5隻のOP級ディンギーをもとに、初めて江の島ジュニアヨットクラブが出来ました。その後、全国津々浦々に誕生したジュニアの組織がいまのヨット界を下支えしているのです。そして、ジュニアセーラーのなかから高校、大学で活躍し、オリンピック選手が誕生しています。
ヨットは自然と一体化する深い楽しみの味わえるスポーツで、決して、爆発的に普及するものではありません。ヨットを育てていくには地道なクラブ活動が大事なのです」
いまは、1964年の東京五輪後に誕生したジュニアクラブが全国に普及している。確かに、インカレを始めオリンピックで活躍する選手の大部分はジュニア育ちである。しかし、もっともヨットの盛んな湘南水域でヨット部のある高校はたったの3校しかない現実はどう受け止めたらいいのだろうか。
「少ないとはいえ、全国に高校ヨット部があり高校生セーラーが活動しています。高校ヨット部の指導者はみんな情熱的です。例えば、どこか地方で大会があれば、先生自身が生徒とヨットを車に積んで大会会場に運ばなければならないし、終われば、撤収作業も先生が率先してやり、生徒たちやヨットを積んでまた戻ってくる。言葉で云うのは簡単ですが、実際には労力のいる大変なことなのです。高校ヨット部を支えている地方の指導者、関係者はもちろんボランティアです。そんな人たちに支えられて優秀な人材が育ち、大学に進んで、やがてはオリンピックを目指すセーラーも誕生する。
2020東京オリンピックを機に、50年先のヨット界を考えた仕組みを作らなければならない。具体的には、地方で頑張っている高校ヨット部の先生たちや指導者にスポットライトを当てて、応援出来るようなシステムをつくることですね。高校の指導者、OP(ジュニア)の指導者、ここがダメになったら日本のヨットは無くなってしまう。このところが非常に大切なのです。それをしっかりと認識して、ジュニアを育て高校ヨット部の活性化を臨めば日本ヨット界の未来も明るい…
もちろん、オリンピックで勝つことは世の脚光を浴びるし大事なことです。同時に、底辺層の裾野拡大、ジュニア、高校生の活動を支えて有望な選手を育成することも大切なのです」
最後に、北京、ロンドンと期待されながらも、なかなかメダルに手の届かない日本のヨット界だが、2020東京オリンピックにはどのように臨めば勝てるのだろうか。
「2000年のシドニーオリンピックからオリンピックを取り巻く環境は大きく変わりました。ヨットの世界も例外ではなく、アマチュア規定がなくなったことによって急速なプロ化が進んできた。どこの国の選手もスポンサーをつけて活動するようになったのです。ですから、選手寿命も長くなって、オリンピックのメダルに挑戦するのが3回目、4回目と云う選手も非常に多い。それだけ長いスパンでオリンピックキャンペーンを考えないと、どんな有望な選手でもすぐにはメダルには手が届かないのが現実です。それを、ポッと1回出場するだけでメダルを手に入れることは、よほどの運がない限り無理です。
日本選手のなかには、プレオリンピックで優勝したり、世界ランク1、2位を維持してきたベテランで、メダル奪取が目前の吉田愛(旧姓近藤)のような選手もいます。いま、彼女のキャリアを超えられる選手はいないし、1~2年休んだところでスキルは衰えないですよ。だから、有望なメダル候補として東京オリンピックも狙えますし、期待していますよ」
林賢之輔ヨット塾の講師としてシニアセーラーとともに
いまも現役コーチとして早稲田大学ヨット部員を鍛え3連覇の偉業を達成
横浜で生まれ育ち、野球、相撲が全盛だった少年時代を過ごし、船乗りに憧れ、陸上やバスケットボールのような一般に認識されているものとは違う、ヨットというスポーツを敢えて選び、その頂点を極めた小松一憲さん。これからも「何かひとつ志を立てたら最後まで成し遂げる」という信条を貫きとおして、若者たちと過ごす海の上で「これが青春だ!」と叫び続けていくに違いない。
それが、長年にわたってレーシングヨットの世界で活躍してきたレジェンド、“小松一憲”の終生変わらぬ生き方なのかも知れない。(本橋一夫)
プロフィール
こまつ かずのり 1948年4月9日、横浜で生まれ横浜で育つ。日本体育大学体育学部卒。高校生のとき、半年間のアルバイトで貯めたお金で小さなディンギーを購入しヨットを始める。日体大入学と同時にフィン級(オリンピック艇種、当時の国体種目)を購入し、大学3年生で神奈川県フィン級国体代表、大学4年生のとき国体成年男子フィン級優勝。卒業と同時に中学校教諭となるが1年で辞めヤマハ発動機に入社。舟艇設計部に所属し、テストを中心とした新艇の開発に携わる。この間、IOR(クルーザー)のレースに参加。4/1トン、2/1トン、4/3トン全日本選手権に優勝。2/1トン世界選手権、4/3トン世界選手権(アテネ3位)に出場。1993~94年のホイットブレッド世界一周レース優勝。J-24全日本選手権優勝、同世界選手権8位。オリンピッククラスでは、470級全日本選手権優勝6回、同世界選手権10年連続出場(2位・6位・10位)。ソリング級全日本選手権7回優勝。オリンピックは、モントリオール・470級10位、ソウル・ソリング級11位、バルセロナ・ソリング級12位、アトランタ・ソリング級19位の戦績。シドニー、アテネでは監督として、北京、ロンドンではコーチとして参加した。
オリンピック・セーリング競技男子成績
開催年 | 開催都市 | 種目/成績 | |
---|---|---|---|
2016 | リオデジャネイロ | ・RS:X級 | 冨澤慎(32歳)/15位 |
・470級 | 土居一斗(24)・今村公彦(32)/17位 | ||
・49er級 | 牧野幸雄(36)・高橋賢次(33)/18位 | ||
2012 | ロンドン | ・RS:X級 | 冨澤慎(28)/28位 |
・470級 | 原田龍之介(27)・吉田雄悟(28)/18位 | ||
・49er級 | 牧野幸雄(36)・高橋賢次(33)/18位 | ||
2008 | 北京 | ・RS:X級 | 冨澤慎(24)/10位 |
・レーザー級 | 飯島洋一(29)/35位 | ||
・470級 | 松永鉄也(29)・上野太郎(27)/7位 | ||
・49er級 | 石橋顕(34)・牧野幸雄(28)/12位 | ||
2004 | アテネ | ・ミストラル級 | 見城元一(35)/19位 |
・レーザー級 | 鈴木國央(28)/35位 | ||
・470級 | 関一人(28)・轟賢二郎(28)/銅メダル | ||
・49er級 | 中村健次(40)・高木正人(38)/15位 | ||
2000 | シドニー | ・ミストラル級 | 見城元一(31)/20位 |
・レーザー級 | 鈴木國央(24)/27位 | ||
・470級 | 浜崎栄一郎(27)・宮井祐治(22)/18位 | ||
・49er級 | 中村健次(36)・佐々木共之(36)/16位 | ||
1996 | アトランタ | ・レーザー級 | 佐々木共之(32)/28位 |
・470級 | 中村健次(32)・高木正人(29)/17位 | ||
・ソリング級 | 小松一憲(48)・迫間正敏(33)・兵藤和行(32)/19位 | ||
1992 | バルセロナ | ・470級 | 広部元博(32)・大津真二(31)/12位 |
・ソリング級 | 小松一憲(44)・高城秀光(33)・藤原康治(33)/12位 | ||
1988 | ソウル | ・470級 | 高橋雅之(25)・中村健次(24)/12位 |
・ソリング級 | 小松一憲(40)・花岡一夫(39)・池田正(33)/11位 | ||
・フィン級 | 高澤幸吉(32)/26位 | ||
・FD級 | 佐藤三郎(27)・脇永達也(23)/20位 | ||
・トーネード級 | 小川直之(34)・田村孝(26)/21位 | ||
1984 | ロサンゼルス | ・ウィンドグライダー級 | 佐藤務(23)/16位 |
・470級 | 高木裕(24)・山本悟(21)/11位 | ||
・ソリング級 | 広沢孝治(37)・沖田稔・藤原巧(22)/17位 | ||
・FD級 | 佐藤三郎(23)・脇永達也(19)/14位 | ||
1980 | モスクワ | --- | |
1976 | モントリオール | ・フィン級 | 広沢孝治(29)/21位 |
・470級 | 小松一憲(28)・黒田光茂(23)/10位 | ||
・FD級 | 花岡一夫(27)・堀内巧(27)/18位 | ||
1972 | ミュンヘン | ・フィン級 | 松山和興(30)/27位 |
・FD級 | 山村彰(36)・山村尚史(31)/19位 | ||
1968 | メキシコシティ | --- | |
1964 | 東京 | ・フィン級 | 山田貴司(26)/21位 |
・スター級 | 石井正行(35)・大久保隆史(22)/13位 | ||
・ドラゴン級 | 棚町三郎(33)・日色輝幸(31)・舟岡正(31)/17位 | ||
・FD級 | 田上康利(30)・松田健次郎(29)/15位 | ||
・5.5m級 | 松本冨士也(32)・吉田正雄(31)・萩原毅(27)/14位 | ||
1960 | ローマ | ・フィン級 | 穂積八洲雄(23)/23位 |
・スター級 | 山田水域(31)・酒井原良松(28)/26位 | ||
・ドラゴン級 | 岡本豊(35)・石井正行(31)・川田節郎(26)/22位 | ||
1956 | メルボルン | --- | |
1952 | ヘルシンキ | ・フィン級 | 海徳敬次郎(22)/27位 |
1948 | ロンドン | --- | |
1936 | ベルリン | ・五輪モノタイプ級 | 藤原紀雄(21)/22位 |
・スター級 | 財部寶(28)・三井卓雄(26)/11位 | ||
1932 | ロサンゼルス | --- | |
1928 | アムステルダム | --- | |
1924 | パリ | --- |