yachting(ヨッティング)は、海を愛するひとびとの総合情報羅針盤です。

連載 あるオールドソルティ―の追憶

第十二回  横浜の海  武村洋一

 横浜の練習海面は横浜港の外防波堤の外側、本牧寄りの隅で、漁船や作業船も少なく、自由に帆走することができた。
 ところで、あの頃のレースコースは、スタートラインが陸上本部前の水面に、風向には関係なく、岸と直角に設けられた。陸上に長いポールを立てて、その上の方に直角に、つまり水平に横棒を取り付ける。その横棒の片側に5個の赤い球が等間隔に高さを変えて斜めに吊らされていて、スタート5分前から、1分毎に1個の赤球が降下され、最後の赤球が降りた時がスタートという仕組みになっていた。直立ポールを挟んで反対側には、信号旗を揚げるハリヤードが3本ほどあって、クラス旗や回答旗などが掲揚された。だから、レース当日の風向によっては、ランニングやアビ―ムでスタートすることも多かった。マークブイは、酒樽や醤油の樽にペンキを塗って使っていた。決まったコースはなく、レース委員会が当日の風向と風速に合わせて、 S-1-3-5-1-F などと決めていた。

 横浜港外には、航路標識がいくつも設置されていて24時間カーバイドを光源とするアセチレンガスの弱い光を放っていた。早稲田はこの標識を 黒ピカ と呼んでいた。「黒ピカ反時計回り2回」などという練習もあった。
 ある日の練習、黒ピカをぎりぎりに回ろうとしてブームの後端が引っ掛かって半沈をしたヨットがいた。乗っていた2人は素早く黒ピカによじ登って濡れることもなく救助を待っていた。胸のポケットには煙草があったのだが、あいにくマッチは濡れて使えなかった。ふと顔をあげると目の前で黒ピカが光った。火だっ!ネジを回して風防ガラスを開け、煙草に火をつけることに成功した2人は、横浜港の航路標識の上で悠々と煙草をくゆらし、傍らには半沈のヨットが繋がれていた。
 たぶん航路標識安全管理法?があれば、違反行為だったと思う。

 何故か、長さがごく短い正方形のような防波堤があった。これも練習コースのマークになった。早稲田はこれをトーフと呼んでいた。鍋の中で出汁の表面からかすかに上面だけ浮かんでいる豆腐に見えないこともない。慶応はそのまま小島と呼んでいた。

武村洋一 たけむらよういち

1933年神奈川県横須賀市生まれ。
旧制横須賀中学から早稲田大学高等学院、早稲田大学に進みヨット部に。
インカレ、伝統の早慶戦等で活躍し、卒業後は黎明期の外洋ヨット界に転じ、
国内外の外洋レースに数多く参加し活躍。3度のアメリカズカップ挑戦にも参画。
主な著書に「海が燃えた日」「古い旅券」。