yachting(ヨッティング)は、海を愛するひとびとの総合情報羅針盤です。

連載 あるオールドソルティ―の追憶

第六回  合宿所  武村洋一

 当時、関東は横浜の新山下町、関西は西宮、近畿は琵琶湖柳ヶ崎、そして中部が知多半島の常滑、がヨットの基地だった。
 いまはもう埋め立てられてしまったけれど、新山下町のヨットハーバーは、1940年(昭和15年)に開催されるはずだった東京オリンピックのために建設された最新の施設だったのだが、ここでオリンピックヨット競技が行われることはなかった。長引く日中戦争の影響で、政府の指導により東京市が開催権を返上してしまったのだ。

 ヨットハーバーは、米軍レスキュー隊とシェアーしていたが、台風接近時などには互いに協力して作業をした。いちど、このレスキューボートに乗せてもらって相模湾の外洋レースを追っかけたことがあった。充実したインテリア、十分な広さのバース、食堂の大型電気冷蔵庫、貧しい日本の学生にとってはまさに映画の中のような空間だった。艇長、クルー、コックも明るく、愉快な連中だった。

 大学のヨット部は、横浜石川町の地蔵坂に蓮光寺という大きなお寺があって、そこの本堂や庫裏を借用して合宿していた。早慶ヨットレースの前夜、襖1枚を隔てて早稲田と慶応がお互いに作戦が聞こえないように小声でミーティングをしたことを憶えている。法事がある日は、ふとんや荷物を隅に片づけてヨットハーバーに出かけた。
 米は配給制で自由に買うことができなかったので、それぞれが家から米を持ち寄って自炊をした。家では乏しい配給の米を持っていかれて困っていた。お寺の裏庭にかまどを並べて各校の食当(炊事当番)が飯を炊いていたが、薪を盗った、盗られたでよくもめていた。

 貧しい合宿生活だったが世の中全体が貧しかったのであまりみじめではなかった。塩で固まったようなぼろ服で街を歩くと必ず警官から職務質問を受けた。頭上の角帽だけが、わずかに学生の矜持を示していた。

 合宿の打ち上げは畳に車座、手拍子で
“友を選ばば書を読みて 六分の侠気 四分の熱”
などと叫んで焼酎を呷っていた。

武村洋一 たけむらよういち

1933年神奈川県横須賀市生まれ。
旧制横須賀中学から早稲田大学高等学院、早稲田大学に進みヨット部に。
インカレ、伝統の早慶戦等で活躍し、卒業後は黎明期の外洋ヨット界に転じ、
国内外の外洋レースに数多く参加し活躍。3度のアメリカズカップ挑戦にも参画。
主な著書に「海が燃えた日」「古い旅券」。