yachting(ヨッティング)は、海を愛するひとびとの総合情報羅針盤です。

連載 あるオールドソルティ―の追憶

第十八回  勝鬨橋  武村洋一

 「早風」は1952年(昭和27年)4月29日、墨田川造船所で進水した。いま、墨田川造船所は江東区でけっこう大きな鋼鉄船を造っているけれど、当時は墨田区のほんとに隅田川の川岸にあった。
 そこは吾妻橋の川上で、海に出るまでにはいくつも橋をくくらなければならないからマストを立てるわけにはいかない。マストをデッキの上に積んで「早風」はいちばん川下の勝鬨橋まで曳航され、橋の下に正確に錨をうって停船した。橋の上には早稲田大学ヨット部の学生たちが、いまや遅しと、待ちかまえていた。橋の上から大声で怒鳴る。下からもなにか云っている。通行人は何事かと立ち止り、この珍しい光景を眺めていた。
 橋上の学生が用意のロープを垂らす、下ではそのロープをマストの上方に結ぶ。合図とともに橋上の学生たちがロープを引き上げる。本来はクレーンで行う仕事なのだが、クレーンも燃料も不足していた時代の人力作戦だった。直立したマストを慎重にデッキのマストホールにさし込みゆっくりと降ろして行く。素早く前後・左右のステーを張りマスト立て作業が完了するのだが、傍らを往来する川船のたてる波に揺られてけっこう困難な作業だった。
 シーズンインのマスト立て、シーズンオフのマスト抜きは「勝鬨橋でヨットのマスト立て(抜き)」として地域のちょっとした名物行事になりかかっていた。
 マストを立て終わり、艤装を完了した「早風」は、白い帆に風をはらみ、勇躍東京湾に向かって走り出すのだった。

 ある年、私が艇長で隅田川河口を帆走した時、ちょうど向かい風でタッキングを繰り返して海に向かっていたのだが、めいっぱい川岸まで近づいたところ浅い川底にキールが突っこんでしまい、止まってしまった。やばい!とヒールをさせたりして離礁作業をしたのだがうまくいかない。すると、水上警察のパトロールボートがサイレンを鳴らしてやって来て、拡声器で「そこのヨット、ここは帆走禁止水域です。ただちに移動せよ」などと云う。「じゃあ、引っ張ってよ」と云いたいのだがこっちの声はとどかない。警察艇は接舷して、船長さんこっちに来てと拉致同行されてしまった。ひととおり事情を説明して曳航をお願いし、「早風」は再び自力帆走状態に入ったのだった。

 あの頃の勝鬨橋は中央部分が1日に5回、空に向かって跳ね上がり、やや大型の船が通れる東京の名所のひとつにもなっていた。

武村洋一 たけむらよういち

1933年神奈川県横須賀市生まれ。
旧制横須賀中学から早稲田大学高等学院、早稲田大学に進みヨット部に。
インカレ、伝統の早慶戦等で活躍し、卒業後は黎明期の外洋ヨット界に転じ、
国内外の外洋レースに数多く参加し活躍。3度のアメリカズカップ挑戦にも参画。
主な著書に「海が燃えた日」「古い旅券」。