連載 あるオールドソルティ―の追憶
第五回 当時の学生ヨット 武村洋一
1950年代、物不足状態は続いていた。石油製品もまだ実用化されていなかった。木のヨット、木綿のセール、麻ロープ、ゴムの合羽。これらの素材がどれだけやっかいな、手のかかるものだったか。 どの学校も3月から活動を開始した。ヨットは、冬の間莚(むしろ)に覆われて戸外に置かれていた。はじめの仕事は、バーナーで前年のペンキを焼いてはがし、表面をサンドペーパーで磨き、へこんだところにはパテをつめる。そして、最後にペンキを塗る。各学校のスクールカラーを誇らしく塗ったものである。早稲田はもちろん海老茶色、慶応は白い船体に青・赤・青のウォーターライン、立教の緑などが印象的だった。だからレースの戦況も船体の色で遠くからでも識別できた。 木綿のセールは濡れると縮んでしまうから、海水をかぶった日には塩出しをしなければならなかった。木綿ロープ、麻ロープも塩出し、乾燥が必要だった。 つい最近、葉山新港の桟橋に繋がれた1隻の木製A級ディンギーを見た。細かく配置されたフレームにリベットでかしめられた巾のせまい外板。よく横浜の岡本造船所でチャンチャンと云っていたけれど、リベット打ちの手伝いをしたものだった。 ハンマーで銅製のリベットの頭をおさえていると、なぜかヨットに愛着が生まれたような気がした。 FRPのヨット、アルミのスパー、ポリエステルのセールは、まことに優れた素材であり、これらによってヨットの性能と安全は飛躍的に向上した。 それに、防水の腕時計。あの頃、防水の時計がなくてほんとに困った。一発のしぶきで壊れてしまう。ある男が、コンドームの中に時計を入れることを提案した。防水性完璧、薄いゴムの被膜だから時計の文字盤がよく見える。あの男はよほどコンドームに精通していたのにちがいない。合宿ではコンドーム係りに任命された。 いまは、ウェットスーツやドライスーツを着て、真冬でも海に出ることができる。 セーリングスポーツにシーズンオフがなくなった。 |
武村洋一 たけむらよういち
1933年神奈川県横須賀市生まれ。 |