yachting(ヨッティング)は、海を愛するひとびとの総合情報羅針盤です。

連載 あるオールドソルティ―の追憶

第十五回  国体(2)  武村洋一

 翌1952年、第七回東北三県大会のヨット競技は、またまた日本三景の松島湾だった。湾の中央に大きな台船やダルマ船(荷役船)を数隻抱き合わせて固定し、レース本部、役員・選手控え所などにして行われた。便所はあったが電源も電話もなかったような気がする。毎日、塩釜の旅館から蒸気船で通った。
 この大会から高校の部にスナイプ級が加えられたのだが、みんなA級ディンギーの経験しかなかった。急きょ、私と並木がスナイプ級でエントリーすることになり、大会前2回ほど練習をして本番に臨んだ。
 この大会のスナイプ級ヨットは、地元の造船所二社が分担して造ったのだが、重量、性能の差が歴然としていて、それぞれに2レースずつ乗るように配艇された。
 武村・並木組は速いヨットで1位・1位。遅い方で4位・7位と一桁にまとめ優勝した。松島湾のレース海面には流れ藻が多くて注意して走らなければならなかった。短い棒の先に三角形の針金がついている「藻とり器」が部品として積んであった。風速が上がり、各艇メインセールをリーフ(縮帆)していたが、並木が「波がないからダイジョブですよ」と云うので我が艇だけがフルメインでスタートした。たしかに長身の並木のハイクアウトは効いた。アップウィンドでは少しメインセールを緩めるだけでほとんどスピードロスはなかった。ダウンウィンドでは圧倒的なスピードでトップフィニッシュをした。いまのように、全国高校総体(インターハイ)が無かったから、国体優勝が高校トップというランキングだった。

 国民体育大会は、なんと、終戦の翌年、昭和21年(1946年)から開催されている。第一回大会は戦災を免れた京都を中心に、近畿大会として行われた。
 戦争にたたきのめされ、食べるものもない時代に、全国のスポーツマンが一堂に会し、その時だけは、辛さも空腹も忘れて青空の下でスポーツを楽しんだ。下ばかり向いていた日本人に笑顔が戻った。スポーツの持つ不思議な力だ。
 そして、国体は開催地の競技施設や宿泊施設、道路などのインフラの整備に大きな威力を発揮して、復興の柱となった。
 あの時代に、国体開催を推進した日本スポーツ界の指導者たちは、なんと高邁な、明朗な精神を持った人たちだったのだろう。いま、国体は、二巡目に入り、華やかに全国を巡っているが、初心は脈々と引き継がれている。
 国体ヨット競技は、セーリング競技と呼び方が変わったが、全国の開催地にヨットハーバーなど、貴重で安全な“遺産”を残し、海国日本の若者たちが躍動する場として機能している。

武村洋一 たけむらよういち

1933年神奈川県横須賀市生まれ。
旧制横須賀中学から早稲田大学高等学院、早稲田大学に進みヨット部に。
インカレ、伝統の早慶戦等で活躍し、卒業後は黎明期の外洋ヨット界に転じ、
国内外の外洋レースに数多く参加し活躍。3度のアメリカズカップ挑戦にも参画。
主な著書に「海が燃えた日」「古い旅券」。