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連載 あるオールドソルティ―の追憶

第十七回  外洋帆走  武村洋一

 ヨット部のOBになって、外洋帆走に興味が移った。相模湾がホームウォーターになって、航海という言葉が身近に感じられるようになった。はじめに、チャートとコンパスで現在位置を知る交差方位法(三角航法)が面白かった。当時は、使いやすいベアリングコンパスが無かったので、方位盤がケースの中でアルコール液に浮かんでいる磁気コンパスの真ん中にシャドウピンを立てて目標の方位を測った。江の島、名島、長者ヶ崎、三点の方位を測定し、チャートに線を引くのだが、大きな三角形ができて大笑いした。小型船用の方位測定器としては、ディレクション・ファインダー(DF)という器械があったが、ラジオの頭に回転するアンテナが付いていて、アンテナが地上波と直角になると通信音が大きくなり、平行になると小さくなるというだけの仕掛けで信頼性はイマイチだった。ラジオとして使うことのほうが多かった。

 ヨットは前述の「早風」であり、今思うとあのヨットでよく外洋に出たものだとぞっとする。
 あらためて「早風」を検証する。IC級(International Coast One Design)全長33フィート、木造。外洋艇ではなかったので水密性脆弱、デッキの安全性はパルピット、ライフラインなし。一切の生活設備なし。補助エンジンなし。航海灯、室内灯なし。
 メシは凪を選んで後甲板に七輪を持ち出して炊いたのだが、途中で風が強くなって苦労したこともあった。胴の間に布団を敷いて寝た。寝返りをうつと布団からジュクジュクと水がしみ出た。朝起きると布団に接していた肩やわき腹がふやけていた。

 このヨットで相模湾を帆走した。7月下旬の鳥羽パールレースにも参加した。あの頃は三重県鳥羽スタート横浜フィニッシュ、距離約180マイル、平均スピード6ノットとして所要時間は30時間。最低1オーバーナイトの外洋レースだった。7月下旬、梅雨明けの1年でいちばん天候が安定する時期だったから無事であったようなものだった。

 1954年9月、伊豆半島下田沖、私たちは「早風」でほんとに死を覚悟したことがあった。この顛末は別項で記述したい。

武村洋一 たけむらよういち

1933年神奈川県横須賀市生まれ。
旧制横須賀中学から早稲田大学高等学院、早稲田大学に進みヨット部に。
インカレ、伝統の早慶戦等で活躍し、卒業後は黎明期の外洋ヨット界に転じ、
国内外の外洋レースに数多く参加し活躍。3度のアメリカズカップ挑戦にも参画。
主な著書に「海が燃えた日」「古い旅券」。