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連載 あるオールドソルティ―の追憶

第三回  「早風」の遭難  武村洋一

 2人の遺体が発見されたこと。他の4人は発見されなかったこと。いくつかの漂流備品を発見、回収したこと。そして、「早風」の船体は発見されなかったこと。
 以上が事実であり、この他の情報はまったく得られていない。

 「早風」と6人のクルーは雄々しく勇敢に自然の猛威と戦ったと思いたい。しかし、帰ってこなかった。

 今、「早風」遭難の原因は?と問われれば、起こるべくして起こった事故だったと答える他にない。以下その理由と背景にあった当時の状況について述べる。
 「早風」は外洋ヨットではなかった。IC級(International Coast One Design Class)というディレーサーだった。ディレーサーだから、前後のパルピット、ライフライン、エンジン、電源、航海灯、生活設備の一切がなかった。水密性もはなはだ脆弱であった。
 敗戦から数年、早稲田をはじめ、東京大学、慶応義塾、中央大学、日本大学など数校のヨット部は、学生の海洋教育をさらに推進することを目的に、ディンギーのレース偏重状況を脱し外洋ヨットの所有、活動を考えていた。そこまでは正しく、英断であったと云える。では、早稲田の場合、何故外洋ヨットではないIC級ヨットを選択したのか。当時の関係者を取材した。そして、そこに敗戦国のまことに悲しい事情があったことを知って愕然とせざるを得なかった。終戦後の物資不足はすさまじく、なかでも石油燃料は徹底的に不足していた。だからヨットにエンジンを搭載することなど考えもしなかった。ということだった。小型の高性能舶用エンジンもなかったし、資金の余裕もなかった。
 しかし、全長33フィート、キャビンがあるキールボート。バウデッキのムアリングビットがなんとも頼もしく見えた。当時学生だった私もこれなら世界中どこへでも行けるぞ、と甚だしい勘違いをしていた。でも、「早風」は外洋ヨットではなかった。
 いまにして思えば、「早風」は外洋レースに出るべきではなかった。出てはいけなかった。OB首脳陣はレース参加を許可してはいけなかった。レースの主催者も安全の基準を満たしていないヨットの参加を許してはいけなかった。それが、「早風」遭難の原因であり、すべてだったと云える。

 日本の外洋帆走のレベルが、残念ながら経験不足で未熟だったのだ。
 そんな時代だった。

武村洋一 たけむらよういち

1933年神奈川県横須賀市生まれ。
旧制横須賀中学から早稲田大学高等学院、早稲田大学に進みヨット部に。
インカレ、伝統の早慶戦等で活躍し、卒業後は黎明期の外洋ヨット界に転じ、
国内外の外洋レースに数多く参加し活躍。3度のアメリカズカップ挑戦にも参画。
主な著書に「海が燃えた日」「古い旅券」。