連載 あるオールドソルティ―の追憶
第十四回 国体 武村洋一
毎年梅雨あけの頃、横浜で東京都と神奈川県の高校ヨット部6校が集まってレースをした。東京都は早稲田学院と教育大付属、神奈川県は逗子開成、法政二高、関東学院高校、それに慶応高校だったと思う。関東インターハイであり、東京と神奈川の国体予選でもあった。 実は、コクタイもインターハイのことも、なんにも知らなくて、ただ一生懸命帆走したことだけを覚えている。その結果がいつも東京都の国体代表だった。 ところで、当時の国体ヨット競技の種目は、下記のとおりで、全艇開催地が用意し、配艇は抽選で決められた。 成年男子 スナイプ級、A級ディンギー 成年女子 A級ディンギー 実業団 スナイプ級、A級ディンギー 高校 スナイプ級、A級ディンギー (A級ディンギーは2人乗り) 私の国体初出場は、1951年の第六回広島大会だった。東京駅から急行「雲仙」で20時間ぐらいかかった。床に新聞紙を拡げて横になったのを覚えている。終戦からわずかに6年、通過する地方都市はどこも戦争被災地であり復興途上だった。翌日の早朝広島駅についた。 ヨット会場は日本三景のひとつとして知られる安芸の宮島で行われた。レース海面は、厳島神社のある北側ではなく、島の南側だった。旅館街は北側だったから、毎日島の中央の山を越えてレース会場に通った。島を一周する通船があったが、いつもエライ人たちが乗っていて、「若いモンは歩け」と云われて山越えをした。 ヨットだけの開会式はまことにささやかなものだった。各都道府県チームはユニフォームもなく、それぞれのロゴマークが入った粗末なワッペンを胸につけて、旅館の下駄を履いて行進をした。 この大会では、まだ高校スナイプ級がなくて、A級ディンギーだけだったが、私たち東京都代表の早稲田大学高等学院ヨット部は杉山主将の活躍で、神奈川の逗子開成高校と争って優勝した。東京都の天皇杯得点に寄与したと褒められたが、なんのことかわからなかった。地元広島代表は鈴ヶ峰女学院で、女子高の参加は珍しく、話題になっていた。 帰途、広島でリンタク(自転車タクシー)に分乗し、原爆ドームや被災地を見学した。原爆被災から6年目の復興に立ち上がる広島の姿を感じた。 |
武村洋一 たけむらよういち
1933年神奈川県横須賀市生まれ。 |