連載 あるオールドソルティ―の追憶
最終回 あの時(2) 武村洋一
1954年9月25日土曜日、我々チーム早稲田の「早風」は朝9時に葉山をスタートした。ところが、それが何のレースだったのか全く記憶に残っていない。わずかな資料を調べてみると、その年の9月に行われた外洋レースは、日本ヨット協会の第3回清水レースであり、横浜スタートになっている。 いずれにしても、その夜、OB3名、学生5名が乗る「早風」は伊豆半島下田沖を帆走しており、急激に発達し速度を増した台風15号の強い南風と激浪の中で苦闘を強いられていた。漆黒の海、波頭が砕けてしぶきとなって襲いかかる。唯一の目標は闇夜の中で力強く16秒毎に2閃光をする神子元島灯台だけだった。 操船を学生に任せて、OBたちはキャビンに入り、チャートを囲んでなにやら相談をしていた。4年生の松本富士也、千葉栄作、3年生は杉山保博、舟岡正、2年生の私がいちばん下っ端だった。舵は松本が握っていた。「早風」は左舷からの横風を受けて、大きく波に上下しながら神子元島灯台を通過し、さらに西に向かって疾走していた。この先には暗礁群があるはずだ。下田に入港するタイミングは今しかない。しかし、波に見え隠れする下田の街の灯はなんとも心細く、追風で突っこんで行く気にはなれなかった。当てもなく激浪の中をさまよっていた。正直、これでお終いかなと思ったが、意外と冷静だった。 相談を終えてOBたちがキャビンから出てきた。艇長の決断は「レースは棄権する。この状態で下田に入ることは危険である、稲取港に入港する」だった。 あの時のタッキングは忘れられない。波の中で、松本は巧みに舵をきった。ヨットは風に真向かいになり、波が1メートルほどの厚みをもって「早風」の船首からデッキに襲いかかってきた。一瞬、「早風」は水の中だった。水没、浮上、コクピットにいた我々はお互いに顔を見合わせて生存を確認したのだった。 伊豆半島東岸沿いに10マイルほど北上し、深夜の稲取港入港に成功し岸壁に舫いをとった。疲れ果て、ただ眠りたかった。狭いキャビンはOBと4年生でいっぱいだった。毛布を1枚づつ抱えて、杉山、舟岡、それに私は近くの網小屋の軒先で野宿するしかなかった。すると、見回りの漁師さんが我々を見つけて事情を理解し、網小屋のドアを開け「中で休め」と云ってくれた。小屋は十分に広く、居心地がよかった。ぶっ倒れるように眠った。 この時の艇長およびOBの決断は、「早風」も我々も無事だったのだから結果として正しかったと云える。台風15号は日本海からさらに北上し、函館港で青函連絡船「洞爺丸」に襲いかかり、1155人の生命を奪う未曽有の海難事故をもたらした。 私のヨット人生2回目の「もはやこれまで」だった。 |
突然ですが、この連載を終了することになりました。ヨッティングが新しい仕組みで再出発したときに、また違った形でお目にかかるかもしれません。ご講読者の皆様には厚く御礼申し上げます。 年寄りの昔話は、あまり読む人の心に響かないことは承知していました。常にこの事を意識して、自省の念から逃れることができませんでした。 いま、あの頃を振り返えると、貧しく、ほんとに物がない時代でした。ライフジャケット、ドライスーツ、レスキューボートなしで強風の海に出ていたのです。 でも、そんなヨットが面白くて、すっかりハマってしまいました。最近はクルーザーのクラブレースで、いつも高齢クルーのボーナスポイントをいただいています。 優しい穏やかな海も、恐ろしい牙をむく海も、海なのです。風や波は誰に対しても分け隔てはしません。海は人間を育てる教室なのです。 ヨットは優れた競技スポーツであり、最高の生涯スポーツです。 一人でも多くの人たちが海に出て、安全に勇敢にセーリングを楽しむことを期待しています。どうも有難うございました。 2015年師走
武村洋一 |
武村洋一 たけむらよういち
1933年神奈川県横須賀市生まれ。 |