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連載 あるオールドソルティ―の追憶

第十三回  ソーケー戦  武村洋一

 言わずもがな、早稲田大学と慶応義塾大学のスポーツの対校戦である。一部慶応関係者の中には、慶早戦と呼ぶ方もいらっしゃる。
 早稲田大学の競技スポーツセンターでは、毎年、その年の早慶戦が○勝×敗だ、などと喜んだり口惜しがったりしているそうだ。各競技ごとに、過去の戦績が明らかになっていて、圧倒していたり、いい勝負だったり、どうしても勝てない種目など関係者は悲喜こもごもである。
 早慶戦の華は、野球、ラグビーであり、NHKの全国ネットで放送されているから、これはもう全日本的なスポーツイベントと云ってもいい。

 ヨット部の早慶戦も、もちろん行われていた。毎年シーズン始めの重要な試合であった。先輩からは、「早慶戦だけは絶対負けるな」と気合を注入されたものである。
 1950年代、早慶ヨットレースは5月の第1土・日曜日と決まっていて、その日は他校のヨットは早慶レースに敬意を表して帆走をしなかった。そんなことを知らない新興校のヨットが出てきたりすると、レースメンバーでない強面の上級生がティラーなどを持って二、三人の手下とともにゆっくりと動き出し、新興校と円満に話をつけて帆走中のヨットを戻させたのであった。その代わり、翌週の三大学ヨットレ-スの日は早慶のヨットは海に出なかった。

 1953年の第16回早慶ヨットレース。早稲田の1年生だった私は、前年、宮城県の松島湾で行われた国体高校スナイプ級に優勝した実績を買われてA級ディンギーのスキッパーとして出場することを許された。まだ高等学院の3年生だった清水栄太郎をクル―にして早慶戦初出場を果たした。張り切ってやたらに大きな声を出していたことを覚えている。声を出して緊張と戦っていたのかもしれない。
 1953年5月3日の毎日新聞スポーツ欄の見出しは、第一日「早大がリード」だった。翌日は「慶4連勝遂ぐ」になっていた。

 木のヨット、木綿のセール、粗末なウェアー、貧しい食事。それでも両校の選手は、母校の誇りを胸に、力いっぱい帆走した。そして、戦い終われば、互いの健闘を讃え、肩を組み、校歌を歌った。横浜の海に夕暮が迫り、すこし寒くなってきた。
 明日は大学に行って、久しぶりに授業に出なければ、などと思った。

武村洋一 たけむらよういち

1933年神奈川県横須賀市生まれ。
旧制横須賀中学から早稲田大学高等学院、早稲田大学に進みヨット部に。
インカレ、伝統の早慶戦等で活躍し、卒業後は黎明期の外洋ヨット界に転じ、
国内外の外洋レースに数多く参加し活躍。3度のアメリカズカップ挑戦にも参画。
主な著書に「海が燃えた日」「古い旅券」。