連載 あるオールドソルティ―の追憶
第七回 手旗信号 武村洋一
終戦から5年、大学のヨット部には軍隊から戻って復学した学生が何人かいたものだ。いわゆる復員学生である。彼らは、服装、言動、まさに学生を超えていた。航空隊員だった学生は、飛行機乗りの誇りとも云える革の半長靴(ハンチョ―カ)を履いてハーバーを闊歩していた。 トランシーバーも携帯電話もなかったあの頃、声の届かない距離でのコミュニケーションは手旗信号だった。指導は復員学生。「バカ!赤は右手だ」とどなられる。発信、受信、カタカナを裏返しにした文字、終了、了解、など基本信号をひととおり教わってからテストがある。先生が発信する単語を読むのである。 「コンニチワ」、「サヨナラ」、「ハラヘツタ」…なかには活字にできないような単語が発信されることもよくあった。 常に手旗を持ち歩く4年生部員がいた。よほど上手なのだろうなと思わせる。彼が岸壁に立つ、やるぞ!と周囲が注目するなか、彼は手旗を小脇にかかえ、両手をメガホンにして、「コース、上1回」などと叫ぶのであった。 でも、手旗信号はそれなりに実用的で役に立った。練習中、急に北の風が強くなり、横浜港特有の三角波が暴れ出すと、ヨットははなはだ危険な状況に陥る。その時、陸勤部隊の一人が岸壁に強く雄々しく立ち上がり、手旗で「カエレ」を連続発信しているではないか。やぁ、嬉しかったねぇ。「おおい!帰るぞ」と艇団をまとめて帰港態勢に入る。 この時、1隻の僚艇が波をきりそこなって沈をする。当時のヨットは自力再帆走ができなかったので、近くの2隻が素早く沈艇の両側に接舷してセールを下ろす。両側から沈艇を思いっきり引き揚げ、センターボードケースの上面を水面より高くした状態にして、死に物狂いで淦(アカ)を汲み出す。沈艇が完全に浮上すると、セールを上げて戻って来る。この一連の作業は気合いをこめて迅速に行わないと成功しない。沈艇のクルーは冷たい海水につかりっぱなしだから、30分が限度だった。でも、陸に上がって焚き火にあたれば、たちまち若い活力が甦えった。あとは、莫大小(メリヤス)の下着とウールのセーターを塩出しして干すだけ。 エンジン付きレスキューボートもライフジャケットもない時代のヨット部は、まさに死と隣り合わせで練習していたと云える。入部して、はじめてきつく云われた言葉は、「どんなことがあっても、舟からはなれるな」だった。 過去に、泳いで岸壁に打ちつけられて死んだ事例がいくつかあったのだ。 |
武村洋一 たけむらよういち
1933年神奈川県横須賀市生まれ。 |